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第二章 花鳥画の発展

絵画は古くから社会、人文、経済等の発展と緊密に関わっている。中国画も例外ではないのである。文字生成される前にも既に絵画が存在していた。
五代、夏、商、周、春秋、戦国、秦(紀元前206年)時代まで社会の進歩、権利の集約、階級の形成、人類知恵や思想の発展につれ、自然に対する 認識がより深く進化してきた。ただし、この段階の絵画は宗教の徴として存在するに過ぎないであり、中国画の萌芽期である。漢代から絵画は装飾品として 独立し始め、三国、両晋、南北朝、隋、唐代まで沢山の傑作を出世した(図1., 図2.、図3.)。
この時期の代表画家は、東晋の顧愷之[《洛神賦図》(図4.)]、陸探微、陶景などがいる。中国の古典絵画の第一成熟期は唐代(紀元618~907年)である。 花鳥画は山水画、人物画の背景から独立し、単独な画科になって、美術的な審美功能を発揮し始めた。かつ、この時期から絵画が政治、宗教から引き離れ、 中国民族絵画の重要な形式として確立された。唐時代の代表画家は韓滉(図5.)、戴嵩(図6.)、辺鸞(図7., 図7.)、閻立徳、馮紹正、朱景玄など80人以上がいる。 後人は「辺鸞雀写生、趙昌花伝神」、辺鸞の雀は生き生きしている、趙昌の花は伝神できる;「窮羽毛之変態、奮花卉之芳妍」、鳥の千態を追求し、百花の 模様を表現できるという評論があった。

絵画理論に関しては、客観的な自然体と主観的な感情の関係を重視し、自然の真実を追究しながら人間の主観的な心霊感情を強調し、生活に対する感受を より一層に深くなり遂げていく。張躁は「外師造化、中得心源」の観点を打ち出し、絵画芸術の基本的なDNAの所在を闡明した。張彦遠は作品の重要性は 「骨気」と「気韵」であることを指摘し、対象の形状より気韵を重視すべきだと提唱した。絵画に対する立意、用筆、形似、骨気間の関係を明らかにした。 従って、作品は人間に感動させるのが精確な形象、充実な骨気、巧妙な立意、適切な筆墨が必要で、「夫象物必在於形似、形似須全其骨気、骨気形似 皆本於立意、而帰於用筆」である。要するに、花鳥画は唐代までかなり発育し、宋代以後の絵画の繁栄に良い土台を作りあげった。 五代(紀元907~960年)から花鳥画は独立画として始めた時期であり、繁栄期への肝心な過渡期である。この時期の花鳥画は質朴で稚拙な技法から繊細な 写実的な表現と進化してきた。この時期の代表画家が徐煕と黄筌がいる。黄筌(図7.)(図8.)は現四川成都人、13歳から刁光胤、孫位、李開学、薛禝学諸家 に師事した。一生五十年間皇家画院に努めた。彼は「勾勒填彩」、墨線で輪郭を描き、色彩で形象を埋め染めるという技法を創出した。彼の息子の居寀、居宝は 家業を受け継ぎ、写生を重視し、生き生きとしている形象、鮮やかな色彩、巧妙な着色技法で「院体画派」まで構築した。今現在でも、この方法をよく使われている。 徐煕(図10.)(図11.) (図12.)は鐘陵人(現江西省進賢)。彼は生活感受を重視し、よく自然を観察し、動物や植物の自然規律を追及し表現した。画風は「粗筆濃墨、 略染雑色」、情韵を重視して、随意な筆墨、薄い色彩で形象を表現するのが特徴である。創めて墨で枝や葉を表現し、淡彩で賦色した。これは後世に言われる「水墨画」 の始まりである。「没骨画」の始まりの私論でもあった。

画風によれば、「徐家は野逸で、黄家は富貴」とよく言われている。いずれにしても、両宋時代(紀元960~1279年)の絵画は中国絵画史上のルネサンスの前奏である。 宋代(960-1127年)では、五代の南唐西蜀の絵画成果を続け発展させ、絵画史上最高期まで成り遂げた。この時期では、なおかつ中国の詩歌の最高期でもあり、 皇帝自身は絵画が好きだ事などを重ね、絵画を発展させる絶好なチャンスであった。この時期では絵画の専門基本技法、表現手法、理論などが完備し成熟になり、 色彩を使わず墨だけで表現する「文人画」(水墨画)、線を使わず色彩で対象を表現する「没骨画」などを形成し、中国の花鳥画体制を完成させた。 北宋前期では、依然黄筌親子の「勾勒填彩」法と徐崇嗣兄弟の「没骨法」が主流である。徐家は「落墨為格」の家法を遵守し、題材広く絵画に取り入れ、 正確な形象、充実な気配、巧妙な立意、適切な筆墨が中国絵画の巧妙な形式を促進し成り遂げた。
皇家は依然「院体派」を主流として存在し、北宋中期まで絵画界を主宰した。崔白、昊元瑜の出現により黄家が主流とする局面が動揺させた。
崔白(図13.)は「体制清淡、筆墨自由」の画風で、形象より絵画の自由かつ心霊感情を重視し、短時間で画家の感情を表現できる形態を作り上げた。 これは写意画(水墨画)である。崔白、昊元瑜の出現により黄家が主流とする局面が動揺させた。 崔白(図14.)は「体制清淡、筆墨自由」の画風で、形象より絵画の自由かつ心霊感情を重視し、短時間で画家の感情を表現できる形態を作り上げた。 これは写意画(水墨画)の雛形である。南宋では、政治的経済的衰退つづあったが、絵画は依然全面的に発展した。勾勒填彩、無骨、重彩、淡彩、水墨などの諸形式が 交わり、中国画の最高繁栄期が到来であった。その中、勾勒填彩、無骨、重彩、淡彩等繊密な伝統を継続するほか、林椿、李迪、僧侶の法常(図16.)(図17.)などは 写意画の先河を開拓した。特に法常は賦彩せず状物・写生から精神面も重視した。これは本当の水墨画の始まりであった。また、法常の作品は日本にも広く伝われ、 「画道の大恩人」とも言われてる。
宋代花鳥画も一つの特徴は「文人画」が興ることであった。彼らは梅、蘭、竹、菊などの題材を持ち、状物ではなく、ものの精神を重視しようとする絵画形式を独立させた。 《宣和画譜》に“有以淡墨揮掃、整整斜斜、不専於形式、面独得之於象外者、往往不出於画史、而多出於詞人墨卿之所作”「淡墨で物の外形を重視せず、 変形した形式で画史に記載でない方法で表現するものであり、詩人や墨客によるものが多い」と述べた。彼らは主に詩人や文人であるので、「文人画」と称された。 なお、当時の文人は官僚になるものが多く、社会に支配する力が強く、後世に「文人画」は中国絵画史を支配する原因だと考えられる。この時期の代表的な画家以下になる。
文同(1018~1079年)、字与可、四川梓潼人。従官司封員外郎、また受命湖州太守、“文湖州”とも称される。墨竹が長所である。 代表作品は《墨竹》(図18)(台北故宮博物館蔵)。
蘇軾、字子瞻、号東坡居士、四川眉州人。有名詩人、文学家、書道家、「文人画」創始人である。代表作品《枯木怪石図》(図19)。
趙孟堅(1199~1264年)、字子固、号彝斎、宋皇族、梅、竹、水仙、蘭などが長所である。画風が高尚・上品な逸脱である(図20)。《墨兰图》(図21)が名作である。
梁楷、生卒不詳、山東東平人、人物、山水、花鳥などが長所である。画風が水墨で表現するのが多いのである。《秋柳双鴉図》(図22)が代表作である。 その画風は元代の顔輝、、明代の徐渭、清代の黄慎に影響が大きいのである。
宋代花鳥画のもう一つの特徴は折枝花卉、扇、画帖の小幅の逸品作が多いのである。代表作は《紅蓼水禽図》、《出水芙蓉図》、《夜合花図》などがある。 要するに宋代の花鳥画は前代の芸術水準より重大な進歩を成し遂げた。花鳥画は単に物の形を表現するのではなく、物を頼り志を唄えることまでに発展し、 絵画の新たな段階を昇りつけた。

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